2011/10/20

2011年11月デモ活動予定

11月9日 民族リーダー解放運動(毎月9日) 渋谷国連前


11月21日 Minko Naing             大使館前

11月30日 De Pe Yin 記念日(毎月30日)   大使館前

2011年11月 月例会議

10月例会の概要

時:11月16日、9:30~12:00
於:駒込地域文化創造館

今月は顧問日下部伸氏が出席して下さって活発な報告・討論が行われた。

会長あいさつ
 例会が月一回となったので、インターネット等で連絡・情報の共有を密にして欲しい。会長の活動  報告として、前回の会議でビルマ人に対する難民対策をBRSAの会長として入管に確認して欲しいという要望があったので、入管の責任者と面会した。その結果報告
1 原則、難民法の規則に基づいて難民の資格審査を行う。認定者は少ない
2 特別在留資格は、帰国すると危険という人には発行する
3 ビザの発行が受けられない人:本国・日本で全く活動していない人、並びに、難民資格があって も著しく素行の悪い人
4 活動の質が大切:デモや集会に出席して大勢の中での写真は、低い評価。高く評価される活動は、自分の祖国に対する思いや信念を独創的なやり方で実行する活動及びその成果
5 BRSA内には自分の能力を発揮できる機会が多くあるのでそれを利用して欲しい。

活動報告
1会計―9月会計報告
 収入: 会費    113,500
 保証金戻り     60,000
 出費: 事務費   25,260
 会場費           60,000
   帳簿残                843,949
   銀行残             1,074,998
   合計                 1,918,947
 2 政治活動
    本国での政治状況報告。それに関連して民主化が進めばBRSAが今まで行ってきた活動を見直  し、新しい方向性を検討する必要がある。メディアの報道を注視すること。
 3 オーマーさんが「収容の代替措置~外国人の収容を回避するために」と題したワークショップ(10 月14日)に出席。その件に関する報告があった。(「ニュース」の中にワークショップに関する報告を掲載)
4 対外活動
月の活動報告。恒例となっている冬の旅行に関するアイディアを出して欲しい

会長:BRSAは互助団体であると同時に政治活動の団体である。会は民主的に運営され、会の活 動に参加することで本国の民主化に向けて民主主義の精神を学ぶ場所ともなっている。そのことを念頭に会の運営・活動に積極的に参加して欲しい。


役員会議 11:00~12:00

会長:今年度2回目のセミナーの主題に関してオーマーさんより提案が出されている。オーマーさんに報告してもらうが、セミナーは遅くとも12月5日(日曜日)までには開催したい。

オーマー提案
 セミナーは、BRSAの若いメンバーや日本人にビルマの政治状況をより深く理解してもらうことを目的として、日本人にも参加してもらい、他団体のリーダー格の人々・経験者にビルマのこれまでの民主化に向けた歴史・運動、さらに「民主化の将来」に関する講義をしてもらう。

セミナーはこの方針で開催することに決定。

会長:組織活動は各々の役割を果たすことで成り立っている。BRSAは充分な計画がないまま活動が行われ上手く執行されていないケースが間々あるので、頑張って欲しい。例えば、冬の旅行の計画もいまだ具体的な計画がされていない。秋のセミナーは充分な準備をして欲しい。
広報活動は引継ぎが上手く行われず、いまだ活動に支障がある。
セタナーは広報部の一部として活動して欲しい。過去その活動内容が会議等で充分報告されず、例えば発行日などの事前報告はなく独自に編集されていたが、今後発行については広報部長と相談し、そのことを役員会議で報告して欲しい。

熊切氏:組織的な問題より、セタナーの内容がいかに読者に受け取られているかのほうが大切な事項だから、内容に関する話をして欲しい。

日下部氏:広報で重要なことは、1.面白いか、面白くないか、2.伝えたいこと、伝えるべきことを考慮して発行日を決める、3.広報では双方向の情報共有が必要なので各会員も情報・写真を編集部に送ること、である。このことを念頭に会員全員の機関誌として情報の発信を行って欲しい。

最後に顧問日下部氏より次の言葉を頂いた。

日下部氏:今日はこの会に出席して皆の熱心さに感銘を受けた。組織活動の重要なことは、1.会議は多くの参加者のもときちんと開催すること、2.情報を共有すること(広報はその一部)、3.資金を集め管理すること、の三項目である。経験から、全部が上手く機能しないと、組織はつぶれる。BRSAが維持できていることは皆さんの努力の賜物であり素晴らしいことである。
上記三つの項目に共通のこととして、「誰が、何を、いつまでにやるか」ということである。「誰かがやるだろう」は絶対に駄目。広報ではホームページが一番大事であり、担当者に情報・写真を送り内容を充実させること。

灯明祭

今年の灯明祭が下記のように開催されます。
ビルマの色々な味が楽しめます。
ご来場をお待ちしております。

11月23日(日曜日) 11:00頃~15:00頃
於:木場公園(地下鉄東西線)
日本人無料

2009/10/22

第1回ワークショップの報告

10月18日、大塚の南大塚地域文化創造館の第一会議室にて、ワークショップを開催しました。
参加者は、ビルマ問題、難民問題に関心のある学生、市民、ジャーナリストなど14名の方々でした。

今回のワークショップの目的は、在日ビルマ難民から1988年の民主化要求デモについて直接話を聞くことにあります。

このワークショップのカギとなるリソースパースンを、オンマートェインさん、ミンアウンカインさん、ミョシトゥオウンさんら4人のBRSA会員が務めてくださいました(もうひとりは匿名)。

まず大瀧会長による挨拶があり、つぎに熊切が予備知識として今回のワークショップの狙いと、1988年の出来事のアウトラインに関する説明を行いました(詳しくはBRSAアーカイブズの「資料」を参照のこと)。そして、司会のNさんよりワークショップの手法と注意事項に関して話があった後、3回のセッションが開始されました。

《今回のワークショップの手法》
14人の参加者を4つの小グループにわけ、部屋の四隅に設けた机にそれぞれ集まってもらいました。4人のリソースパーソンがそれぞれの椅子に座り、参加者が直接インタビューを行います。

参加者には、次の資料が手渡されています。

1)ビルマ問題難民問題に関する基本情報を記した資料
2)ワークショップの狙いや1988年の背景を記した資料
3)ビルマの地図
4)ヤンゴンの地図
5)ヤンゴンの市街地の詳細地図

これらの資料を使いながら、1988年に何が起きたかを、それぞれのグループで聞き取りを行います。

最 初のセッションは20分、そしてリソースパーソンがグループを変え、次のセッションが始まります。この第2回のセッションもやはり20分。ですが、時間に なってもどのグループも話に夢中でなかなか終わりにしてくれません。結局、休憩時間の5分もほとんどの人が席を立たず、ビルマ難民とのインタビューを行っ ていました。そんなわけで最後のセッションは30分としました。

セッションの最中に、各グループを回って、1988年のデモの様子を記録した4分ほどのビデオを見てもらいました。

《まとめ》
今回は各小グループには特別な課題は出さなかったので、小グループごとに何か報告するということはありませんでした。話をしてくださった会員の方々に一言感想を述べてもらい、アンケートに記入していていただいてワークショップは終了しました。

《終わりに》
参加者の皆さんは熱心にインタビュアーの役目を果たしてくださったと思います。話が弾まないという事態をいちばん危惧していたのですが、ビルマ問題に対する参加者それぞれの関心が高く、またビルマ人の方も率直に話してくださったため、非常に活発な交流ができました。

次回は同様な手法で「在日ビルマ人の生活・労働問題」を扱う予定です(12月頃)。

今回おいで下さった参加者のみなさま、貴重な体験をお話しくださった4人のビルマ難民の方々、準備と司会を行ってくれたNさん、そして会場の準備や受付などを行ってワークショップを支えてくださった会員のみなさますべてに心より感謝を申し上げます。

第1回ワークショップ資料

BRSAワークショップ・聞くことからはじめるビルマ難民ソーシャルワーク
第一回「証言・軍事政権下での生活と民主化デモ〜ビルマ難民の原因」2009年10月18日

イントロダクション
熊切拓

1)ワークショップの趣旨〜2つのねらい
 ①ビルマ難民から実際に話を聞くという作業を体験する。
 ②ビルマ難民発生の原因のひとつである1988年の民主化デモについて話を聞く。

2)難民の話を聞く
①少なくとも2000人以上の難民認定申請者。しかも、難民(申請者)の数は増加傾向にある。

②これら難民たちは日本でさまざまな問題に直面している。
難民認定申請、医療、労働、入管への収容、教育、こども、女性問題etc
⇒難民認定のための支援、公的扶助や医療を受けるための支援、収容者への支援、生活問題への支援の必要

③ビルマ難民の話を「聞く」技術の重要性。
これらの支援は、必要な知識も、支援技術も異なるが、その基礎にあるのは「難民が何を訴え、何を必要としているか」について話を聞くこと。
いっぽう、ビルマ難民にとっても、自分の体験を日本人に理解できるよう語ることは重要。

④今回の目標は「難民から話を直に聞く」という作業を体験してみる。(生の証言、資料にあたることの重要性)

ポイント
・ビルマ難民の日本語能力はさまざま。相手の話を理解し、また自分の問いを理解してもらうためには、相手の日本語能力を見極めて、それに応じて表現を変えたりすることが必要。

・ただ単に聞くのではなく、相手と協力して事実を掘り出し構成していくことが重要。話すことによって相手を消耗させるのではなく、相手を元気づける作業。

3)1988年8月8日の8888民主化要求デモについて聞く
①1988年の民主化デモは、ほとんどすべてのビルマ国民の人生を大きく変えた出来事。
在日ビルマ難民の年齢は30代〜40代が中心。1988年の民主化要求デモ当時、高校生・大学生だった人々。8888民主化活動の担い手はこれらの学生たちだった。→今もその影響は続いている。

②証言の重要性
8888デモに関しては、何冊か本も出ているが、全ビルマ的な出来事であったため、すべての証言が尽くされているわけではない。また、ビルマ国内ではそもそも体験談を集めること自体不可能。そのような意味では、今回のワークショップは、規模の小さなものであるにしても、ひとつの重要な記録ともなる。

③8888民主化デモの背景
原因:ネウィン将軍(議長)率いるビルマ社会主義計画党(マサラ政権)の一党軍事独裁による腐敗、経済状況の悪化。

④8888民主化デモ前後の流れ
1987.9.05. 政府、3種の高額紙幣の廃止を発表。国民の財産が失われ、学生たちがデモを起こす。

1988
3.12. ヤンゴンで学生らによる大規模反政府デモ。死者数百人ともいわれる。その後徐々に学生の組織化が進む。

6.21 大学封鎖される。その後ヤンゴンで外出禁止令。

7.23 ネウィン、党議長を辞任。「命中するように撃つ」演説。セインルイン議長就任。

8.03 ヤンゴンに戒厳令布告。

8.08 学生・市民が戒厳令を無視してゼネストに突入(8888民主化デモ)。

8.09 ビルマ各地でデモ隊と治安警察が衝突。デモ活動、政治集会が全国的規模で活発化するいっぽう、弾圧による死傷者も急増する。

8.12 セインルイン議長辞任。

8.26 ヤンゴンの集会でアウンサンスーチー、はじめて演説する。

9.19 軍のクーデター。反政府デモ活動の徹底した弾圧が始まる。
(参考:田辺寿夫著『ビルマ民主化運動1988』梨の木舎)

⑤8888民主化デモの帰結「ビルマ問題の世界化」
・今に至る民主化運動のはじまり。
・新たな軍事政権の誕生。
・難民の発生。
・総選挙の実施。
・アウンサンスーチーの登場、国民民主連盟の結成・・・などなど。
⇒ビルマ問題の世界化(難民の拡散、メディアの関心、国際政治問題化、ノーベル賞)。

⑥軍事独裁政権下の生活 経済的問題、学生生活、監視と密告が常態の社会、政府の腐敗、賄賂の横行・・・

ポイント  質問はできるだけ具体的に。同時に相手を思いやって。
・地図、年表を手がかりに具体的に尋ねる。8888デモはいつどこからスタートしたのか? 軍の弾圧はどのようだったのか? ネウィンの演説のときどこにいて、何をしてた? クーデターの時はどうだった? 軍から逮捕や尋問、弾圧を受けたことがあるならば、それはどんな状況で起きたのか? などなど。

・数字も具体的に。年齢、日付、時間、価格、参加人数など。

・とはいっても、20年以上も前のこと、覚えていらっしゃらないこともあります。

・なかには思い出すのもつらい経験をした方もいるかもしれません。身を切るような思いで自分の体験を話さざるをえない状況もあることを忘れずに!

批評しても

現在品川に収容中のBRSA役員のエーナンダーアウンさんから、素敵なイラストのついたお手紙を9月19日にいただきました。右側の列にある笑っている女性がそのイラストです。

エイナンダーアウンさんが外に出るまでの間、BRSAのマスコットとして活躍していただきましょう。

手紙には彼女が日本語に訳した詩が入っていました。ビルマ人のお坊さんの詩だそうです。彼女は手紙で、訳には間違いが多いかもしれませんと書いています。確かに文意の通じない点もありますが、ほぼそのまま掲載させていただきます。

批評しても・・・

遠慮会釈なく言われた
命中が激烈だ
耐え難い
強い武器みたい

褒めてくれる声が
伝えられれば
本当にしあわせ
嬉しさもひとしお

自分に関して
悪い噂されれば
耳にも苦しくて
センタンみたいって

耳や目や
口も持ってる人間
彼女の見解
彼女が勝手に言ってるのを
どうやって止められないの

とにかく批評されても
受ける自分の気持ちは
清らかな感じで
動揺せずにね

神様のお話があって
あなたがくれても
私はもらわなければ
あなたに戻るんだよって

周りの批評
避けるのが難しいよ
無視して受け取らなければ
もう順調だよね


2009/08/28

衆院選に寄せて

ダズィンモーさんから選挙への思いを語る投稿をいただきました。
ありがとうございます。これを読んだら選挙に行きましょう!


今、日本で選挙が行われています。国民が自由に選択して、投票することができます。国民が政府に 支持するか、反対するか自由に決めることができます。人権が完全に守られているということでしょう。それを見るのは、羨ましくてたまりません。

そ の日本と比べて祖国ビルマのことを思い浮かべると、とてもつらく悲しくなります。政権を奪取した軍事政権の弾圧を国民が受けるようになっています。国民が 自分達のための政府を自由に選ぶ機会もないし、自由に投票することもできないのです。軍事政権が自己の権力を安定させるために、国民の皆が支持し、期待し ている指導者スーチー氏にも軟禁、監禁など、いろんな方法を使って国民の前に姿を出せないよう圧迫を加えているのです。政権を保持するだけのため、そして 自己の利益だけのため国民を弾圧し、残酷な行政をして、自らの権力に陶酔しているこの軍事政権のために、国民は生活が安定せず、生命さえ安全ではなくなっ て、国境へそして他国へとあらゆる方法で逃げ出すようになったのです。一方、国に残された国民も不公平とは分かっても武器で弾圧している軍事政権には対抗 できないでしょう。

不公平だからといって、どれほどころがるように号泣しても、どんなに耐えて苦しんでも、今はどのようにも対抗できない のです。今の軍事政権に反対するには、自分の人生のすべてをかけ生命さえ捨てる覚悟が必要です。人間として生まれたからこそ、人間らしく、人権ぐらいは最 低として必要だから、それを渇望するのは当然のことでしょう。

…………………………………

ダズィンモー

2009/08/20

21回目の8888に寄せて〜永遠に片付きはしない

会員のダズィンモーさんより8888民主化運動21周年に寄せた感動的な文章をいただきました。8月8日にあわせていただいたのですが、遅れてしまい申し訳ありません。若干の日本語を訂正したほかは、ほぼそのまま掲載させていただきます。

1988年8月8日(21周年記念日)

ビルマは独立を果たしたあと、平和な時代が来ました。平和的にあらゆる方面から発展するように、間違いをおかすことなく努カした総理大臣ウー・ヌの時代です。みんな平等で、なんの心配もなしに暮らすことができました。

そ の平和な時代が壊れ始めたのは1962年3月2日、ネーウィン将軍による国家評議会が政権をとるようになった時代からです。1962年、政権を奪取した後 に、大きな工場とか、富裕者たちの所有している物、工場、家、土地、建物などを「国有財産」と名付けて、不正に奪いとってしまいました。奪いとられた人達 は、余りのショックに気が狂いそうになったそうです。ネーウィンの行政は、このように国民の涙、国民の生活が崩れることで始まったのです。
 
ネー ウィンの悪政はそれだけにはとどまりませんでした。学生たちが、公正な行政、真実を望んで平和運動を行っていましたが、そんな学生達を、治安軍隊を出動さ せて残酷に殺したり(1962年7月7日の事件)、学生連合の建物を地雷で破壊したりして、大学生たちを酷く圧迫したのです。そして、国の発展のためには 欠かせない主要な研究所にいる学識がある人たちを圧迫し、それに抗議する知識人を逮捕して、刑務所に入れてしまいました。そんな政府のやり方を受け容れら れない国民たちはあらゆる方法で国外へ逃れるようになっていきました。国内に残った国民には武力で弾圧して統治しました。

一つの国の一番大切なものが教育です。教育が進歩すると国民の道徳、社会制度、医療など各方面が進歩していくのです。国の一番主要で基本的な教育を破壊してしまったことで、現在は最悪な状態になってしまいました。

ネー ウィン将軍の国家評議会が政権を奪取した1962年から26年間、彼は国の財政や天然資源などを自分たちのグループのために利用したのです。一方国民に対 しては弾圧して統治しました。榷威をふるう軍隊幹部たちは、自己の利益を図るだけでした。ビルマの金銭を、世界中のどこの国の金銭とも交換可能にするため に世界銀行に預けてある金塊を我がものとしたために、今ビルマの国内に流通している金銭は国際的には通用しない、ただの色を塗った紙くずになってしまった のです。

26年間、長期にわたって軍に管理された社会、経済、医療、教育各方面は悪化していきました。様々な方法で弾圧されていた国民た ちの不満や怒りは抑えきれない状態まで高まっていて、工科大学生達と文理科大学生達が先頭にたって学生運動が始まりました。この学生運動に対する弾圧は酷 いものでした。1988年3月16日に象徴的な事件が起きました。大学の近くにある「白い橋」で治安軍隊が学生達に攻撃をしました。学生達の多くが殺さ れ、その「白い橋」は犠牲者の学生達の血で、まっ赤に染まり、この後は「赤い橋」と呼ばれるようになったのです。それからも、弾圧はさらに続き、真実の民 主主義を要求する平和的なデモの一番前から順番に平和運動の学生たちを捕え、殺すなど状況はとても悪くなっていきました。

そして、最悪の 警告がネーウィン自身の声でテレビから流れてきました。それは私の胸のなかを今でも忘れられないほど苦しめる演説でした。「国民が集まって、集団で、騒い だら、もう今度は銃を上に向けて発砲しませんよ、次は前へまっすぐあなた達の胸に向けて発砲します。」国の最高指導者は、国民を自分の奴隷のように考え、 武器を頼りに暴力で従わせようとしているのです。

1988年8月8日 最も大きい民衆運動、大規模デモ

1962年から始まった運動の波は潔白な学生たちが殺されたことでより大きくなりました。辛抱しきれない国民、僧侶、学生たちが民主化を要求し、ビルマ最大の民主運動8888運動が 起きたのです。1988年8月8日の記念すべき最も大きい民衆運動、大規模デモでした。このデモは無垢な学生達、国民たちのたくさんの生命を犠牲にして終 わりました。ネーウィンの行政は、この1988年の民衆運動が終わるまで、話しきれないほどの酷い卑怯なやり方でいっぱいでした。

ネー ウィン将軍の配下の軍隊が、ネーウィン将軍にとって代わって国の権力を掌握して、ネーウィンの26年間の独裁政治が終わり、軍閥政治へと変わって現在に 至っています。しかし、弾圧の政治は続き、学生、僧侶たちの運動は血が流れるようになり、デモは静かになっていきました。しかし、表面では終わったように 見えますが、彼らの心の中の叫びは終わっていないのです。

同じミャンマー国民なのに、一方は武器をとり片方はそれに苦しんでいます。日ごとに国民の生活は苦しくなってきています。私はとても悲しく思います。

国民はこわがり、心配しています。貧しい生活は良くなりません。国民の正当な榷利の要求に対して政府は何も答えてくれません。まして、そのような運動に対して弾圧を加えようとするのはもうそろそろ止めるべきではないでしょうか。

国のために尊い命を捧げた、私の先輩である学生や僧侶の皆さまのために、この日を忘れてはならないし、あの人たちに代わって私なりにできるだけ―生懸命やろうと思っています。

真実の民主化のため生命を犠牲にした兄弟学生達の皆さまにこの文章で謹んで敬意を表します。もう21周年になりましたが、国民の皆さまと私の胸の中にどうしても抜き取れない苦しい悲しみがあったことを忘れたくないのです。私なりにできるだけ―生懸命やろうと決意します。

真実の民主化のため、生命を犠牲にした兄弟学生たち、国民たちとともに、人生をかけて投獄されて、弾圧されている政治犯兄弟たちにこの文章で謹んで敬意を表します。

特 に、私の人生の中で、1988年のビルマ最大の民主化運動の出来事は一生忘れないでしょう。その1988年大規模デモで私の先輩である学生達、私の友達が 殺されたこと、そして私自身も目撃した学生達を残酷に殴り殺していたことなど、全てをどのようにも忘れないのです。私達がその時に皆で唄った一つの歌があ りました。皆もその歌を忘れないと思います。私も今までその歌を唄うたびに、涙が止まらないのです。

Kabar Ma Kyay Bu

永遠に片付きはしない


私達の血で記録した歴史

革命


民主闘争のまっただ中で戦死した


ホー、勇士皆、全員


志士達が住んでいる国


勇猛な我々ビルマ国民達


コダォマィン 歴史も野蛮になりましたよ 祖父


タキンアウンサン 国も血で汚れるようになったよ 父親

ホー、平気でやっているでしょう

道路の上に国民の死体


積み重なって崩れてゆきます


兄弟姉妹たち


道路の上、流れた血がまだ乾かない


思い迷わないで


民主闘争のまっただ中で戦死した


ホー、勇士皆全員みたいに


独裁者達に(向って)革命運動します


愛国心のある我々志士達


永遠に片付きはしない


。。。。。。。。。。。。。。。。

ダズィンモー

2009/08/19

2009年8月9日房総バスツアー報告

2009年8月9日、つまり、8888デモの翌日、BRSAは房総を巡るバスツアーを行いました。

今回の参加者は54名。2台の大型バスにはやや少なめの参加者でしたが、それでも十分楽しい小旅行でした。

朝7時に巣鴨を出発し、途中海ほたるで休憩。すると、別のビルマ人の乗ったバスに遭遇。やはり海水浴に行くとのことでした。

9時半には鋸山の日本寺に到着。大仏さまを前に思い思いにお祈りしたり、写真を撮ったりしました。集合写真

大仏さまの脇のベンチを利用して、ビルマ仏教式のお供えの台を設けます。果物を中央に置き、両脇には花が飾られています。

これは、軍事政権の迫害により倒れた民主化活動家たちへの追悼のお祈りを捧げるためのもの。参加者一同ひざまずき、手を合わせてお祈りを唱えました。


日本寺を出て、勝浦市の守谷海水浴場に向かいます。12時前に到着し、早速役員・会員たちが徹夜で作った昼食(鶏肉のカレー、豆のスープ)が振る舞われました。


昼食後は海水浴タイム。みんな思う存分海を満喫しました。


5時に海水浴場を出発し、途中再び海ほたるで休憩・買い物。巣鴨に到着したのは夜の9時過ぎでした。みなさんお疲れさまでした!

バス旅行の様子は次の①〜⑩をクリックしてご覧ください(各5枚ずつ写真があります)。

         

        

2009年8月9日房総バスツアー⑩ 海辺の光景




2009年8月9日房総バスツアー⑨ 海の精霊


民主化を訴える海の精霊とともに。


精霊はこの後、再び海へと帰っていきました。

2009年8月9日房総バスツアー⑧ 浜辺で





2009年8月9日房総バスツアー⑦ 昼食〜海水浴





2009年8月9日房総バスツアー⑥ 昼食

今日の献立は鶏肉のカレーと豆のスープ、そしてビルマ風激辛ふりかけです。


海の家で食べさせてもらいました。


2009年8月9日房総バスツアー⑤ 記念撮影〜昼食




勝浦市の守谷海水浴場に到着しました。まずは昼食です。

2009年8月9日房総バスツアー④ お祈りと記念撮影





2009年8月9日房総バスツアー③ お祈り

軍事政権の弾圧により命を失った民主化活動家のためにお祈りをします。